2013.12.31 (Tue)
“タウトと旧日向家熱海別邸”展
“タウトと旧日向家熱海別邸”展
来る2月1日(土)~3月29日(土)の期間に、
熱海・起雲閣・企画展示室にて、
世界遺産の建築家ブルーノ・タウトの大回顧展を開催します。

同時に、3月2日(日、14時より)には
「タウトとジャポニスム」と題した講演会も開催します。
ギャラャー・トークは、2月2日(日)、8日(土)、3月16日(日)の13時半に開催します。

タウトの1933年の来日および『日本の芸術』(邦訳名『日本文化史観』)執筆等の活動を、19世紀以降ヨーロッパにおける大きな芸術の潮流であるジャポニスムのなかで捉え直そうという展示会であり、講演会です。
多くの皆さまのお出でをお待ちしております。
(昨年11月の展示会では展示できませんでした、倍以上の多くのパネルおよび貴重な遺品等を展示します。)
-Denkmalschutz-
来る2月1日(土)~3月29日(土)の期間に、
熱海・起雲閣・企画展示室にて、
世界遺産の建築家ブルーノ・タウトの大回顧展を開催します。

同時に、3月2日(日、14時より)には
「タウトとジャポニスム」と題した講演会も開催します。
ギャラャー・トークは、2月2日(日)、8日(土)、3月16日(日)の13時半に開催します。

タウトの1933年の来日および『日本の芸術』(邦訳名『日本文化史観』)執筆等の活動を、19世紀以降ヨーロッパにおける大きな芸術の潮流であるジャポニスムのなかで捉え直そうという展示会であり、講演会です。
多くの皆さまのお出でをお待ちしております。
(昨年11月の展示会では展示できませんでした、倍以上の多くのパネルおよび貴重な遺品等を展示します。)
-Denkmalschutz-
2013.11.05 (Tue)
第3回 深紅の情熱展 Bruno Taut in Atami
11月19日(火)~22日(金)に、熱海市・起雲閣の2階ギャラリーで、第3回「深紅の情熱展 Bruno Taut in Atami 」を開催します。
世界遺産の建築家ブルーノ・タウトが日本に残した唯一の遺産である旧日向家熱海別邸を、多彩な写真と詳細な説明とで紹介します。
タウトは建築家としてのみならず、日本文化をドイツを初めとした西欧世界に紹介したことでも大変重要な活動をしました。こうしたタウトの業績をさまざまな出版物の展示により紹介します。
この展示会も第3回となりましたが、今回新たに作成したパネルも加え、いっそう充実した展示内容となっています。

来場者がまずはっと息を呑む最初の部屋は「社交室」です。
ヨーロッパ風でありながら使われているのは桐や竹という日本風の材料です。
また照明も独特であり、興味深く感じられることでしょう。
写真に添えられた説明が来場者の疑問を解く手助けをすることでしょう。
(昨年度の写真です。)

旧日向家熱海別邸のみならず、タウトが日本の墨と毛筆で描いた『桂離宮の思い出』も巻物として展示され、一気に鑑賞することが可能となっています。
さらに、実現しませんでしたがタウトが日本に作ろうとしたジードルング(郊外型集合住宅地)のプランも展示します。
日本におけるブルーノ・タウトの活動の全貌を俯瞰しうる、貴重な展示会となっています。
多くの皆さまのご来場をお待ちしております。
ぜひご来場ください。
(Denkmalschutz)
世界遺産の建築家ブルーノ・タウトが日本に残した唯一の遺産である旧日向家熱海別邸を、多彩な写真と詳細な説明とで紹介します。
タウトは建築家としてのみならず、日本文化をドイツを初めとした西欧世界に紹介したことでも大変重要な活動をしました。こうしたタウトの業績をさまざまな出版物の展示により紹介します。
この展示会も第3回となりましたが、今回新たに作成したパネルも加え、いっそう充実した展示内容となっています。

来場者がまずはっと息を呑む最初の部屋は「社交室」です。
ヨーロッパ風でありながら使われているのは桐や竹という日本風の材料です。
また照明も独特であり、興味深く感じられることでしょう。
写真に添えられた説明が来場者の疑問を解く手助けをすることでしょう。
(昨年度の写真です。)

旧日向家熱海別邸のみならず、タウトが日本の墨と毛筆で描いた『桂離宮の思い出』も巻物として展示され、一気に鑑賞することが可能となっています。
さらに、実現しませんでしたがタウトが日本に作ろうとしたジードルング(郊外型集合住宅地)のプランも展示します。
日本におけるブルーノ・タウトの活動の全貌を俯瞰しうる、貴重な展示会となっています。
多くの皆さまのご来場をお待ちしております。
ぜひご来場ください。
(Denkmalschutz)
2013.10.01 (Tue)
DOCOMOMO100選と日向邸
先月の朝日新聞からの切り抜きである。

DOCOMOMOという聞き慣れないアルファベットが並んでいる。これについては、例えば『ニッポンのモダニズム建築 100』(マガジンハウス)や『アール・デコの建築』(吉田鋼市著、中公新書、とりわけ第5章)に紹介されている。前者は写真が豊富に掲載されており分かりやすい。
DOCOMOMOとはDocumentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement (モダン・ムーヴメントに関わる建物、敷地および地域の記録と保存)の略である。近代建築の記録と保存を目的として1988年に設立された国際学術組織である。日本は2000年にブラジリアで開催された総会で正式加入し、同時に日本の20件を発表した。そして各国支部が20件選定したモダニズムの建築遺産がまとめられ出版された。
日本では、とても20件では選びきれないという理由から、2003年に80件を加えて、「100選」とした。残念なことに解体された大阪中央郵便局も、もちろん名建築として選定されている。そもそもDOCOMOMOという名称からして、近代建築の保存がいかに困難なことか容易に想像できる。“Conservation and Documentation” ではなく“Documentation and Conservation”なのである。保存(Conservation)は難しかろうと思われるのでせめて記録(Documentation)くらいはしてほしいということであろうか。

ブルーノ・タウトが日本に唯一のこした旧日向家熱海別邸についても事情は同様である。タウトが考案した不思議な照明は切れたままである。タウトが、天井に貼る桐の板のカットの仕方まで細心に指示し、照明により生じる陰影の美と陰影が醸しだす天井及び社交室の雰囲気も、現状ではまったく見ることがかなわない。
いやいやそうではないのかもしれない。長らく良好に保存してきた日本カーバイド社が売却しようとした際に、もし一人の篤志家が現れず、さらに熱海市が篤志家の寄附を受けなかったとしたら、この「建築におけるジャポニスムの傑作」も、無惨に解体されてしまい、記録(Documentation)となりはてていたことであろう。保存(Conservation)され、一般開放されていることでも良しとしなければならないのかもしれない。

この奇跡の建築とも言うべき旧日向家熱海別邸は、タウトを吉田鉄郎が助言し協力したからこそ生じたのであろう。ドイツ人建築家タウトだけではこのような建築は生まれえない。日本の建築にも精通した吉田鉄郎という名建築家がタウトと議論を交わし、タウトも吉田を信頼し、その意見を吸収しつつ作ったからこそ完成できたのである。先月紹介したヨドコウ迎賓館はアメリカ人建築家ライトが作ったものであり、ライトの脇に吉田に匹敵する人はいなかった。たしかにヨドコウ迎賓館にアメリカ人ライトが造り上げた大変魅力的な日本間を見ることができるが、しかし西洋的なものと日本的なものが化学反応し、融合し、結晶した空間は日向邸のほかには無いのではなかろうか。最初に紹介した大阪中央郵便局は吉田の手になるものである。それは解体されたが、旧日向家熱海別邸は保存されている。
なお静岡県では他に“図書印刷株式会社原町工場”がある。一度訪問して、見学を申し出たところ快く受け入れて下さり、案内して戴いた。この工場は丹下健三の手になるものである。

来年の2~3月に熱海の起雲閣の企画展示室で、上記のようなDOCOMOMO100選の建築における日向邸や、吉田鉄郎や村野藤吾といった日本の名建築家とタウトとの関係を紹介する回顧展が開催される。
ぜひ実際に、旧日向家熱海別邸を見学して戴きたいし、あわせて起雲閣で開催される「タウトと旧日向家熱海別邸」展を訪れて戴きたい。
というのも、先月も引用したが、かつてタウトが京都の桂離宮を訪れた時に「桂離宮/御殿と御庭/ -そこでは眼に映るものを考えなくてはならない-」と書き記しように、この旧日向家熱海別邸も考えながら鑑賞する建築にほかならないからである。
Denkmalschutz

DOCOMOMOという聞き慣れないアルファベットが並んでいる。これについては、例えば『ニッポンのモダニズム建築 100』(マガジンハウス)や『アール・デコの建築』(吉田鋼市著、中公新書、とりわけ第5章)に紹介されている。前者は写真が豊富に掲載されており分かりやすい。
DOCOMOMOとはDocumentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement (モダン・ムーヴメントに関わる建物、敷地および地域の記録と保存)の略である。近代建築の記録と保存を目的として1988年に設立された国際学術組織である。日本は2000年にブラジリアで開催された総会で正式加入し、同時に日本の20件を発表した。そして各国支部が20件選定したモダニズムの建築遺産がまとめられ出版された。
日本では、とても20件では選びきれないという理由から、2003年に80件を加えて、「100選」とした。残念なことに解体された大阪中央郵便局も、もちろん名建築として選定されている。そもそもDOCOMOMOという名称からして、近代建築の保存がいかに困難なことか容易に想像できる。“Conservation and Documentation” ではなく“Documentation and Conservation”なのである。保存(Conservation)は難しかろうと思われるのでせめて記録(Documentation)くらいはしてほしいということであろうか。

ブルーノ・タウトが日本に唯一のこした旧日向家熱海別邸についても事情は同様である。タウトが考案した不思議な照明は切れたままである。タウトが、天井に貼る桐の板のカットの仕方まで細心に指示し、照明により生じる陰影の美と陰影が醸しだす天井及び社交室の雰囲気も、現状ではまったく見ることがかなわない。
いやいやそうではないのかもしれない。長らく良好に保存してきた日本カーバイド社が売却しようとした際に、もし一人の篤志家が現れず、さらに熱海市が篤志家の寄附を受けなかったとしたら、この「建築におけるジャポニスムの傑作」も、無惨に解体されてしまい、記録(Documentation)となりはてていたことであろう。保存(Conservation)され、一般開放されていることでも良しとしなければならないのかもしれない。

この奇跡の建築とも言うべき旧日向家熱海別邸は、タウトを吉田鉄郎が助言し協力したからこそ生じたのであろう。ドイツ人建築家タウトだけではこのような建築は生まれえない。日本の建築にも精通した吉田鉄郎という名建築家がタウトと議論を交わし、タウトも吉田を信頼し、その意見を吸収しつつ作ったからこそ完成できたのである。先月紹介したヨドコウ迎賓館はアメリカ人建築家ライトが作ったものであり、ライトの脇に吉田に匹敵する人はいなかった。たしかにヨドコウ迎賓館にアメリカ人ライトが造り上げた大変魅力的な日本間を見ることができるが、しかし西洋的なものと日本的なものが化学反応し、融合し、結晶した空間は日向邸のほかには無いのではなかろうか。最初に紹介した大阪中央郵便局は吉田の手になるものである。それは解体されたが、旧日向家熱海別邸は保存されている。
なお静岡県では他に“図書印刷株式会社原町工場”がある。一度訪問して、見学を申し出たところ快く受け入れて下さり、案内して戴いた。この工場は丹下健三の手になるものである。

来年の2~3月に熱海の起雲閣の企画展示室で、上記のようなDOCOMOMO100選の建築における日向邸や、吉田鉄郎や村野藤吾といった日本の名建築家とタウトとの関係を紹介する回顧展が開催される。
ぜひ実際に、旧日向家熱海別邸を見学して戴きたいし、あわせて起雲閣で開催される「タウトと旧日向家熱海別邸」展を訪れて戴きたい。
というのも、先月も引用したが、かつてタウトが京都の桂離宮を訪れた時に「桂離宮/御殿と御庭/ -そこでは眼に映るものを考えなくてはならない-」と書き記しように、この旧日向家熱海別邸も考えながら鑑賞する建築にほかならないからである。
Denkmalschutz
2013.09.01 (Sun)
旧日向家熱海別邸とヨドコウ迎賓館
芦屋の丘に佇むヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)を見学する機会を得た。この建物は、灘の酒造家八代目の山邑太左衛門の依頼を受けて、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)が1918年に別邸として設計したものである。
ライトらしいとも言えるが、突然帰国してしまったため、遠藤新と南信(みなみまこと)らによって完成した。ところでライトは1913年に帝国ホテル新館設計のために初来日している。

いっぽうブルーノ・タウト(1880-1938)は1933年5月3日に敦賀港に着き、翌日には桂離宮に案内されたことは良く知られていることである。そして5月18日に京都から東京に移動し、その日の日記に早速帝国ホテルについての記述がある。
「自動車で帝国ホテルへ、――ホテルのなかは頭を押さえつけられるような感じだ(この建築の外観もそうだが)。芸術的にはいかものだ。どうもかしこも大谷石ばかり、そのうえ到るところに凹凸があって埃の溜まり場になっている(まったく非日本的だ)、仰々しい寺院気分――これが『芸術』なのだろうか。さまざまな階段はさながら迷路である、空間の使用はこのうえもなく非経済的だ。ライトに深い失望を感じる。」(岩波書店 80頁)
かなり手厳しいライト批判である。キイワードは“非日本的”であろう。
ライトもタウトもともに浮世絵等の日本美術に強い関心を持ち、ジャポニスムの洗礼を受けていたと言って良いだろう。要は、その受容の仕方である。ライトが日本産の大谷石をふんだんに利用したことに、タウトは共感できなかった。たしかにタウトが内装設計した旧日向家熱海別邸では、竹と漆がふんだんに用いられており、“日本的”なるものの理解にはっきりとして違いを見出すことができる。
しかし二つの建築に共通する思想を見出すこともできる。日向邸はいわば“地下室”であり、外観がないとも言えるのだが、海からの様子を見るとタウトが改修した跡がはっきりとわかる。

海に面した開口部(唯一の外観でもあるのだが)を最大限大きくとり、室内と室外との結びつき、連続性を重視している。
いっぽうライトも、丘を切り崩して4階建ての別邸を造りはせず、丘の丘陵にあわせて建物を階段状に配置している。両建築ともタウトが言うところのAußenwohnraum (これをシュパイデルは「外の居間」と訳している)に配慮した造りとなっている。
また和風建築に階段状の空間を取り入れる点でも共通した姿勢を見出すことができる。


もう一点だけ指摘すると、床の間の“デザイン”である。タウトもライトも落し掛けの高さを鴨居と同じ高さとし、また長押は用いられてはいない。
和風建築の伝統に縛られない欧米人によりデザインされた和室であり床の間である。また再び、吉田五十八と清水一との「木のこと 木造建築のこと」という対談を思い出した。
「清水 ・・・以前の日本建築っていうのは、材料が自慢で、デザインはそれほど気にもしていないですね・・・・デザインはどうでもいい・・・たのまれた建築家は、洋館だけ設計するのね。で日本館はプランだけこしらえて大工に渡しちゃう・・・全然建築家は手をつけない・・・
吉田 建築家が設計しだしたのは、私が数寄屋建築をやりだしてからですよ。昔は日本間に建築家は手をつけないもんでしたよ。」


外国人が先入観にとらわれずにデザインしたことを、吉田は伝統と格闘しながら革新してきたのだった。
両建築とも、言うまでもないが、国指定の重要文化財であり、DOCOMOMO100選に含まれている名建築である。その魅力を、この短いブログで、とても伝えきることなどできはしない。
タウトは桂離宮を訪れたときに、「桂離宮/御殿と御庭/ -そこでは眼に映るものを考えなくてはならない-」と書き記した。 ぜひ自分の眼で、思考しつつ、鑑賞していただきたい。
参考文献
『饒舌集』吉田五十八 (新建築社)
『日本 タウトの日記 1933年』(岩波書店)
(Denkmalschutz)
ライトらしいとも言えるが、突然帰国してしまったため、遠藤新と南信(みなみまこと)らによって完成した。ところでライトは1913年に帝国ホテル新館設計のために初来日している。

いっぽうブルーノ・タウト(1880-1938)は1933年5月3日に敦賀港に着き、翌日には桂離宮に案内されたことは良く知られていることである。そして5月18日に京都から東京に移動し、その日の日記に早速帝国ホテルについての記述がある。
「自動車で帝国ホテルへ、――ホテルのなかは頭を押さえつけられるような感じだ(この建築の外観もそうだが)。芸術的にはいかものだ。どうもかしこも大谷石ばかり、そのうえ到るところに凹凸があって埃の溜まり場になっている(まったく非日本的だ)、仰々しい寺院気分――これが『芸術』なのだろうか。さまざまな階段はさながら迷路である、空間の使用はこのうえもなく非経済的だ。ライトに深い失望を感じる。」(岩波書店 80頁)
かなり手厳しいライト批判である。キイワードは“非日本的”であろう。
ライトもタウトもともに浮世絵等の日本美術に強い関心を持ち、ジャポニスムの洗礼を受けていたと言って良いだろう。要は、その受容の仕方である。ライトが日本産の大谷石をふんだんに利用したことに、タウトは共感できなかった。たしかにタウトが内装設計した旧日向家熱海別邸では、竹と漆がふんだんに用いられており、“日本的”なるものの理解にはっきりとして違いを見出すことができる。
しかし二つの建築に共通する思想を見出すこともできる。日向邸はいわば“地下室”であり、外観がないとも言えるのだが、海からの様子を見るとタウトが改修した跡がはっきりとわかる。

海に面した開口部(唯一の外観でもあるのだが)を最大限大きくとり、室内と室外との結びつき、連続性を重視している。
いっぽうライトも、丘を切り崩して4階建ての別邸を造りはせず、丘の丘陵にあわせて建物を階段状に配置している。両建築ともタウトが言うところのAußenwohnraum (これをシュパイデルは「外の居間」と訳している)に配慮した造りとなっている。
また和風建築に階段状の空間を取り入れる点でも共通した姿勢を見出すことができる。


もう一点だけ指摘すると、床の間の“デザイン”である。タウトもライトも落し掛けの高さを鴨居と同じ高さとし、また長押は用いられてはいない。
和風建築の伝統に縛られない欧米人によりデザインされた和室であり床の間である。また再び、吉田五十八と清水一との「木のこと 木造建築のこと」という対談を思い出した。
「清水 ・・・以前の日本建築っていうのは、材料が自慢で、デザインはそれほど気にもしていないですね・・・・デザインはどうでもいい・・・たのまれた建築家は、洋館だけ設計するのね。で日本館はプランだけこしらえて大工に渡しちゃう・・・全然建築家は手をつけない・・・
吉田 建築家が設計しだしたのは、私が数寄屋建築をやりだしてからですよ。昔は日本間に建築家は手をつけないもんでしたよ。」


外国人が先入観にとらわれずにデザインしたことを、吉田は伝統と格闘しながら革新してきたのだった。
両建築とも、言うまでもないが、国指定の重要文化財であり、DOCOMOMO100選に含まれている名建築である。その魅力を、この短いブログで、とても伝えきることなどできはしない。
タウトは桂離宮を訪れたときに、「桂離宮/御殿と御庭/ -そこでは眼に映るものを考えなくてはならない-」と書き記した。 ぜひ自分の眼で、思考しつつ、鑑賞していただきたい。
参考文献
『饒舌集』吉田五十八 (新建築社)
『日本 タウトの日記 1933年』(岩波書店)
(Denkmalschutz)
2013.07.31 (Wed)
タウトとシェーアバルト (1)
ブルーノ・タウト(1880-1938)は1914年にケルンで開催されたドイツ工作連盟(DeutscherWerkbund)の博覧会でガラスの家を発表した。この一作だけでもタウトは歴史に名を留める建築家になったことであろう。その制作のインスピレーションをタウトに与えたのは、作家のシェーアバルト(Paul Scheerbart 1863-1915)であった。ドームの下の帯にタウトは「ガラスは我々に新時代をもたらす。煉瓦文化は我々をただ悲しませる」等と書き入れているのであるが、これはシェーアバルトの詩なのである。つまりシェーアバルトの詩からガラスの家は生まれたとも言えるのである。

シェーアバルトは1914年に『ガラス建築』を出版した。その『ガラス建築』はブルーノ・タウトに捧げられており、その中で「ライン沿岸ケルンの1914年の工作連盟のためにブルーノ・タウトがガラスの家(グラスハウス)を建てている。ガラス産業全体の代表作品ということである。これがぜひとも成功すれはいいと思う」と呼びかけており、ガラスの家が完成したときには、タウトがこの建築物をシェーアバルトに捧げているのである。
1913年から1914年にかけてのシェーアバルトの手紙を中心とした著作を著したレオ・イケラールは「タウトとシェーアバルトの関係は、芸術的な造形において、異なった専門分野やジャンルがいかに互いに影響を及ぼしうるかを示す模範的な例である」と位置づけている。
作家シェーアバルトは、ドイツの空想小説家であり、奇想天外なファンタジーは、表現主義の先触れを含んでいると言われる。SF小説『小遊星物語』、『永久機関-附・ガラス建築』等が翻訳されている。
その作品からはややもすると「奇想天外」という印象を受けがちであるが、例えばベンヤミンは次のように書いている。「シェーアバルトの小説は、遠くから見ると、ジュール・ヴェルヌの小説そっくりであるが、じつはヴェルヌとはぜんぜんちがうのである。ヴェルヌのばあい、荒唐無稽な乗物にのって宇宙をとびまわるのは、いつもイギリスかフランスの小金利生活者たちだけであった。シェーアバルトの関心は、しかし、われわれの望遠鏡や飛行機やロケットがいままでの人間をどのように変え、どのような新しいタイプの美しい愛すべき人間を生みだすであろうか、という問題に向けられた」。つまりシェーアバルトの小説は、SF小説というよりはユートピア小説であると理解すべきであり、こうした姿勢がタウトの郊外型集合住宅地(ジードルング)に込めた思いとも根本において一致していた。
ガラスの家に掲げられた詩には、新しい建築素材であるガラスが、人類に幸福をもたらす素材つまりユートピアに通じる素材としてとしてうたわれているのである。ガラスの家とは、建築という分野で芸術作品が制作され一つの例に他ならない。このガラスの家の一階にはカスケードが造られ、水が白い階段状部分を流れ落ち、そこには二階のドームからの光が降り注いでいた。この夢のような建築は、第一次大戦の勃発にともない撤去されてしまい、その雰囲気すらもはや体験できない。しかしタウト研究家のシュパイデルはその雰囲気を旧日向家熱海別邸の洋風居間に感じることができると論じている。奇跡的に残されたタウトによる日本唯一の建築に、若きタウトが夢見た芸術としての建築、光と水の芸術を感じ取ることができるのである。


シェーアバルトの作品のなかでも最も奇想天外なものは、パラス星という架空の遊星を舞台としたSF小説『レザベンディオLesabéndio』(邦訳名『小遊星物語』)ではないだろうか。パラス星の直径は約13km で、南北から漏斗状の空洞がある。そこのベルト道路でパラス星人は移動する。

このSF 小説は次のように始まる。「空は菫色だった。そして星々は緑色だった。さらに太陽も緑色だった・・・」。常識を覆す色彩がまず示され、ついでこの小説の主人公であるパラス星人のレザベンディオの奇妙奇天烈な説明が続く。その体は、吸盤がついた足をもったゴム状の筒の脚のようなもので、50メートル以上にも伸びる。ゴム状の頭皮は、ぴんと広げられた雨傘のようになった・・・・。なんとも奇妙な世界が描かれる。が、この世界をタウトが共有していたことを忘れてはいけないし、見過ごしてはならないのは、パラス星人のすべての仕事は、パラス星をどんどん改装し、改造し、とりわけ風景を変え、より壮麗で雄大にすることに集中していた」(14)と書かれており、この小説のテーマが「建築」であることである。
その詳細は次回にご紹介します。

参考文献
『タウト全集第5巻』
鈴木久雄『タウト芸術の旅』
『ブルーノ・タウト1880-1938』(シュパイデル、セゾン美術館)
『ベンヤミン著作集1 暴力批判論』
„Bruno Taut 1880-1938“(Akademie der Künste)
Leo Ikelaar „Paul Scheerbarts Briefe von 1913-1914 an Gottfried Heinersdorff, Bruno Taut und Herwarth Walden“ (Igel Verlag)
„BRUNO TAUT Architekt zwischen Tradition und Avangarde“(DVA)

シェーアバルトは1914年に『ガラス建築』を出版した。その『ガラス建築』はブルーノ・タウトに捧げられており、その中で「ライン沿岸ケルンの1914年の工作連盟のためにブルーノ・タウトがガラスの家(グラスハウス)を建てている。ガラス産業全体の代表作品ということである。これがぜひとも成功すれはいいと思う」と呼びかけており、ガラスの家が完成したときには、タウトがこの建築物をシェーアバルトに捧げているのである。
1913年から1914年にかけてのシェーアバルトの手紙を中心とした著作を著したレオ・イケラールは「タウトとシェーアバルトの関係は、芸術的な造形において、異なった専門分野やジャンルがいかに互いに影響を及ぼしうるかを示す模範的な例である」と位置づけている。
作家シェーアバルトは、ドイツの空想小説家であり、奇想天外なファンタジーは、表現主義の先触れを含んでいると言われる。SF小説『小遊星物語』、『永久機関-附・ガラス建築』等が翻訳されている。
その作品からはややもすると「奇想天外」という印象を受けがちであるが、例えばベンヤミンは次のように書いている。「シェーアバルトの小説は、遠くから見ると、ジュール・ヴェルヌの小説そっくりであるが、じつはヴェルヌとはぜんぜんちがうのである。ヴェルヌのばあい、荒唐無稽な乗物にのって宇宙をとびまわるのは、いつもイギリスかフランスの小金利生活者たちだけであった。シェーアバルトの関心は、しかし、われわれの望遠鏡や飛行機やロケットがいままでの人間をどのように変え、どのような新しいタイプの美しい愛すべき人間を生みだすであろうか、という問題に向けられた」。つまりシェーアバルトの小説は、SF小説というよりはユートピア小説であると理解すべきであり、こうした姿勢がタウトの郊外型集合住宅地(ジードルング)に込めた思いとも根本において一致していた。
ガラスの家に掲げられた詩には、新しい建築素材であるガラスが、人類に幸福をもたらす素材つまりユートピアに通じる素材としてとしてうたわれているのである。ガラスの家とは、建築という分野で芸術作品が制作され一つの例に他ならない。このガラスの家の一階にはカスケードが造られ、水が白い階段状部分を流れ落ち、そこには二階のドームからの光が降り注いでいた。この夢のような建築は、第一次大戦の勃発にともない撤去されてしまい、その雰囲気すらもはや体験できない。しかしタウト研究家のシュパイデルはその雰囲気を旧日向家熱海別邸の洋風居間に感じることができると論じている。奇跡的に残されたタウトによる日本唯一の建築に、若きタウトが夢見た芸術としての建築、光と水の芸術を感じ取ることができるのである。


シェーアバルトの作品のなかでも最も奇想天外なものは、パラス星という架空の遊星を舞台としたSF小説『レザベンディオLesabéndio』(邦訳名『小遊星物語』)ではないだろうか。パラス星の直径は約13km で、南北から漏斗状の空洞がある。そこのベルト道路でパラス星人は移動する。

このSF 小説は次のように始まる。「空は菫色だった。そして星々は緑色だった。さらに太陽も緑色だった・・・」。常識を覆す色彩がまず示され、ついでこの小説の主人公であるパラス星人のレザベンディオの奇妙奇天烈な説明が続く。その体は、吸盤がついた足をもったゴム状の筒の脚のようなもので、50メートル以上にも伸びる。ゴム状の頭皮は、ぴんと広げられた雨傘のようになった・・・・。なんとも奇妙な世界が描かれる。が、この世界をタウトが共有していたことを忘れてはいけないし、見過ごしてはならないのは、パラス星人のすべての仕事は、パラス星をどんどん改装し、改造し、とりわけ風景を変え、より壮麗で雄大にすることに集中していた」(14)と書かれており、この小説のテーマが「建築」であることである。
その詳細は次回にご紹介します。

参考文献
『タウト全集第5巻』
鈴木久雄『タウト芸術の旅』
『ブルーノ・タウト1880-1938』(シュパイデル、セゾン美術館)
『ベンヤミン著作集1 暴力批判論』
„Bruno Taut 1880-1938“(Akademie der Künste)
Leo Ikelaar „Paul Scheerbarts Briefe von 1913-1914 an Gottfried Heinersdorff, Bruno Taut und Herwarth Walden“ (Igel Verlag)
„BRUNO TAUT Architekt zwischen Tradition und Avangarde“(DVA)
2013.07.01 (Mon)
吉田五十八建築とタウト
先日、BS朝日で、岩波家熱海別邸である惜櫟荘(せきれきそう)を放映する番組があった。この別邸は再建されはしたものの一般公開されず、見ることがかなわない建築をテレビ画面を通してとはいえ鑑賞することができるわけであり、大変楽しみにして視聴した。
ところがである、視聴していて、何度も首を傾げざるをえなかった。吉田自身の著作の内容とは異なる内容が流れてくるのである。
ナレーションで「東京美術学校に入学した吉田は建築を学ぶために、ヨーロッパを旅行したが、西洋建築にどこか違和感を覚えた」という説明が流れる。それに続いて吉田五十八研究事務所に10年余り働き、吉田を恩師という建築家の板垣元彬氏が、「吉田は、学校を出てからヨーロッパに行ったときの思いというのは、おそらく当時の新しいヨーロッパの建築のデザインに対する関心、憧れをもって行ったんだろうと思うんです、自分もそういうものやろうと思って、だけど行ってみて失望した。だから帰ってきて、日本の建築の近代化を、とりわけ数寄屋造りを近代化していこう、今風に言えば明快なデザインにしようと、と自分ではっきり言っている」と説明しているのである。
吉田の弟子ともいうべき人が語っているのではあるが、吉田自身の著作の内容とは異なっている。あるいは発言の一部がカットされてしまっているのかもしれないが、簡単に聞き過ごすことはできない内容である。
そもそも訪欧体験は吉田の建築観を決定づけたものであった。この要を曖昧なままにして、建築家吉田五十八の活動を理解できるのであろうか。
吉田五十八は幸いなことに著作を残してくれている。雑誌や新聞に掲載されたものを集めたもので、『饒舌抄』というタイトルで出版されている。その中の「数寄屋十話」に、吉田が訪欧したときの体験が描かれている。
『饒舌抄』表紙

*吉田自身が描いた「第三回古典小唄の会 道具帳」(1972年)をカヴァーに使用している。
「それから、われわれの旅は、ドイツからスイスを経てイタリアにはいったのですが、私を驚天動地させたのは、フィレンツェの初期ルネサンスの建築でした。これを見たときに、こんなにもいい建築がこの世にあったのかと、しばしことばも出ないほど、感激したのであります。その作品のおおらかさといい、その格調の高さといい、また圧倒されるようなボリュームといい、なんともかとも、いいようのない感銘に打たれたので、あこがれのドイツ新建築など、どこかへ吹っ飛んでしまったようでした。・・・各地のゴシック建築には、すっかりまいってしまいました。あの宗教の偉大な迫力による、石造美術の魅力。これが人間のつくりうる、建築に対する最大の限界なのではなかろうかと思われたくらいに、打ちのめされた・・・」
と論じられている。これが吉田のヨーロッパの建築観であろう。たしかに板垣氏が指摘しているように、ヨーロッパのモダニズム建築には失望している。しかし吉田自身の論述では、モダニズム建築に失望したということよりも、初期ルネサンスやゴシック建築に筆舌に尽くせない程感激し、感銘を受け、打ちのめされたことに力点が置かれている。この体験を踏まえて、吉田の建築観が築かれるのである。
ナレーションで安易に語られてしまっている「ヨーロッパを旅行したが、西洋建築にどこか違和感を覚えた」から数寄屋建築に取り組んだのとは、訳が違うのではなかろうか。日本人建築家として、ヨーロッパの建築に比肩しうる建築は、日本建築しかありえないという覚悟がここに生まれているのである。先程の吉田の文章に続く箇所を見てみよう。

(カヴァーを拡げた画像。左端が架けているが、右端と同じように続いている。)
「この偉大なるショックは、私の従来までの建築観を、一挙に変えてしまったのです。それというのは、こういった超名作を見て、つくづく考えたことは、建築も、ここまでくると、人間の知恵、能力以前の問題で、民族、血統、歴史、伝統・・・・・といったものからくるなにものかで、(引用者略)・・・そして結論的にいえば、そこに生まれた人で、そこの血をうけたひとでなければ建てられない建築だと断じたわけです。こう考えてきますと、やはり、日本人は、日本建築によって、西欧の名作と対決すべきだ。また立派に対抗できる。」(260頁以下)
吉田がヨーロッパの建築を見学し、違和感を覚え、ヨーロッパの建築に失望して、数寄屋建築に取り組んだというのでは、余りにも不遜で一面的な建築観というべきであろう。決してそうではなく、吉田は、ヨーロッパの建築に感銘を受け、建築とはそれぞれの土地に、その民族の建築家にしか建てられないものだと痛感させられたのである。
だからこそ、タウトが日本を訪問し、日本建築の良さを力説した姿勢に同感だったのだろう。『饒舌抄』には次のようにも記されている。「一昨日の朝、ブルーノ・タウト氏に就いての放送をはからずも聞いて、ほんとうに感慨無量の感に打たれた。日本人は日本固有の建築を再認識してもらいたいと同時に、タウト氏を再び思い出して頂きたい。」(100頁)
もう少し吉田自身の著作を読み込み、吉田の建築観を理解し、それに基づいて番組を制作して戴きたかった。惜しまれる。
熱海には吉田五十八の傑作の一つと言われる旧杵屋六左衛門別邸、さらに東山荘(MOA美術館で知られる岡田茂吉が施主)も現存する。残念ながらいずれも非公開である。
御殿場では、東山旧岸邸が一般公開されている。畳の縁、欄間の仕掛け等々が効果的でなんとも気持ちのいい空間である。訪問し鑑賞することをお薦めしたい。隣接するとらや工房は、内藤廣氏の作品であり、ここも必見である。内藤氏の作品としては、安曇野ちひろ美術館、ちひろ美術館・東京、みなとみらい線・馬車道駅などがある。
また吉田については、上記の『饒舌抄』のほかに砂川幸雄著の『建築家吉田五十八』も入手可能である。ご一読をお薦めしたい。
砂川幸雄『建築家吉田五十八』の表紙

Denkmalschutz
ところがである、視聴していて、何度も首を傾げざるをえなかった。吉田自身の著作の内容とは異なる内容が流れてくるのである。
ナレーションで「東京美術学校に入学した吉田は建築を学ぶために、ヨーロッパを旅行したが、西洋建築にどこか違和感を覚えた」という説明が流れる。それに続いて吉田五十八研究事務所に10年余り働き、吉田を恩師という建築家の板垣元彬氏が、「吉田は、学校を出てからヨーロッパに行ったときの思いというのは、おそらく当時の新しいヨーロッパの建築のデザインに対する関心、憧れをもって行ったんだろうと思うんです、自分もそういうものやろうと思って、だけど行ってみて失望した。だから帰ってきて、日本の建築の近代化を、とりわけ数寄屋造りを近代化していこう、今風に言えば明快なデザインにしようと、と自分ではっきり言っている」と説明しているのである。
吉田の弟子ともいうべき人が語っているのではあるが、吉田自身の著作の内容とは異なっている。あるいは発言の一部がカットされてしまっているのかもしれないが、簡単に聞き過ごすことはできない内容である。
そもそも訪欧体験は吉田の建築観を決定づけたものであった。この要を曖昧なままにして、建築家吉田五十八の活動を理解できるのであろうか。
吉田五十八は幸いなことに著作を残してくれている。雑誌や新聞に掲載されたものを集めたもので、『饒舌抄』というタイトルで出版されている。その中の「数寄屋十話」に、吉田が訪欧したときの体験が描かれている。
『饒舌抄』表紙

*吉田自身が描いた「第三回古典小唄の会 道具帳」(1972年)をカヴァーに使用している。
「それから、われわれの旅は、ドイツからスイスを経てイタリアにはいったのですが、私を驚天動地させたのは、フィレンツェの初期ルネサンスの建築でした。これを見たときに、こんなにもいい建築がこの世にあったのかと、しばしことばも出ないほど、感激したのであります。その作品のおおらかさといい、その格調の高さといい、また圧倒されるようなボリュームといい、なんともかとも、いいようのない感銘に打たれたので、あこがれのドイツ新建築など、どこかへ吹っ飛んでしまったようでした。・・・各地のゴシック建築には、すっかりまいってしまいました。あの宗教の偉大な迫力による、石造美術の魅力。これが人間のつくりうる、建築に対する最大の限界なのではなかろうかと思われたくらいに、打ちのめされた・・・」
と論じられている。これが吉田のヨーロッパの建築観であろう。たしかに板垣氏が指摘しているように、ヨーロッパのモダニズム建築には失望している。しかし吉田自身の論述では、モダニズム建築に失望したということよりも、初期ルネサンスやゴシック建築に筆舌に尽くせない程感激し、感銘を受け、打ちのめされたことに力点が置かれている。この体験を踏まえて、吉田の建築観が築かれるのである。
ナレーションで安易に語られてしまっている「ヨーロッパを旅行したが、西洋建築にどこか違和感を覚えた」から数寄屋建築に取り組んだのとは、訳が違うのではなかろうか。日本人建築家として、ヨーロッパの建築に比肩しうる建築は、日本建築しかありえないという覚悟がここに生まれているのである。先程の吉田の文章に続く箇所を見てみよう。

(カヴァーを拡げた画像。左端が架けているが、右端と同じように続いている。)
「この偉大なるショックは、私の従来までの建築観を、一挙に変えてしまったのです。それというのは、こういった超名作を見て、つくづく考えたことは、建築も、ここまでくると、人間の知恵、能力以前の問題で、民族、血統、歴史、伝統・・・・・といったものからくるなにものかで、(引用者略)・・・そして結論的にいえば、そこに生まれた人で、そこの血をうけたひとでなければ建てられない建築だと断じたわけです。こう考えてきますと、やはり、日本人は、日本建築によって、西欧の名作と対決すべきだ。また立派に対抗できる。」(260頁以下)
吉田がヨーロッパの建築を見学し、違和感を覚え、ヨーロッパの建築に失望して、数寄屋建築に取り組んだというのでは、余りにも不遜で一面的な建築観というべきであろう。決してそうではなく、吉田は、ヨーロッパの建築に感銘を受け、建築とはそれぞれの土地に、その民族の建築家にしか建てられないものだと痛感させられたのである。
だからこそ、タウトが日本を訪問し、日本建築の良さを力説した姿勢に同感だったのだろう。『饒舌抄』には次のようにも記されている。「一昨日の朝、ブルーノ・タウト氏に就いての放送をはからずも聞いて、ほんとうに感慨無量の感に打たれた。日本人は日本固有の建築を再認識してもらいたいと同時に、タウト氏を再び思い出して頂きたい。」(100頁)
もう少し吉田自身の著作を読み込み、吉田の建築観を理解し、それに基づいて番組を制作して戴きたかった。惜しまれる。
熱海には吉田五十八の傑作の一つと言われる旧杵屋六左衛門別邸、さらに東山荘(MOA美術館で知られる岡田茂吉が施主)も現存する。残念ながらいずれも非公開である。
御殿場では、東山旧岸邸が一般公開されている。畳の縁、欄間の仕掛け等々が効果的でなんとも気持ちのいい空間である。訪問し鑑賞することをお薦めしたい。隣接するとらや工房は、内藤廣氏の作品であり、ここも必見である。内藤氏の作品としては、安曇野ちひろ美術館、ちひろ美術館・東京、みなとみらい線・馬車道駅などがある。
また吉田については、上記の『饒舌抄』のほかに砂川幸雄著の『建築家吉田五十八』も入手可能である。ご一読をお薦めしたい。
砂川幸雄『建築家吉田五十八』の表紙

Denkmalschutz
2013.06.01 (Sat)
タウトとドイツ大使館
伊豆の松崎町に国指定重要文化財の岩科学校がある。明治12年(1880)頃の建築であり、当時の洋風建築である。ナマコ壁もあり、その扁額は太政大臣三条実美の書であり、その上の龍は、入江長八(1815-1889)の作品と伝えられている。“なまこ壁擬洋風”の建物は現在では僅かしか残っていない大変貴重なものである。
タイトルからは少し回り道をさせて戴くと・・・

入江長八は“漆喰の芸術家”とも“左官の神様”とも言うべきすぐれた芸術家である。立体ではもちろんないが、平面でもない、“鏝絵(こてえ)”には、不思議な立体感及びリアリティがあり、魅力に富んでいる。

ちなみに近くにある伊豆の長八美術館(1984)は石山修武の設計であり、石山はこの設計により「吉田五十八賞」を受賞している。外壁は“漆喰の王者”と言われる土佐漆喰で塗られ、なまこ壁で飾られている。展示室には壁の上部から自然光が差し込むように設計され、来場者は階段を昇り降りしながら鑑賞するようになっている。つまり鏝により膨らみをつけられた絵を通常の視点からのみならず、上方からも下方からも見ることができ、膨らみが作り出す陰影の魅力をあますところなく鑑賞できるように設計されているのである。

回り道しすぎた感もあるが、岩科学校に戻る。二階には入江長八の傑作と言われる千羽鶴が描かれた日本間があり、ここの床の間はのぼる太陽を表し紅に塗られ、違い棚の壁は緑色に塗られている。強い配色であり、すぐさま旧日向家熱海別邸の洋風客間と和風客間を想起させられた。日本人の色彩感覚も時代とともに変わるものということであろうか。
さらに驚かされたことがあった。
館内の多くの展示を簡単に見て通りすぎようとしていたとき、一枚の写真に[昭和10年ドイツ大使夫人「フォン・ディルクセン」来校時の写真である。]と書かれていたのだ。タウトの日記に登場する大使夫人が、伊豆の松崎を訪ねていたのだ。まず、日記からディルクセン夫人に関する記述を紹介しよう。
1934年2月4日、東京「・・・ドイツ大使館へ行く、万事きちんとしている。ディルクセン夫人と竹匠飯塚琅玕齋の工房を訪ねる・・・。 それでもディルクセン夫人は深皿様に編んだ作品を一個購った。・・・(注)ディルクセン(Hubert von Dirksen, 1882-)。ドイツの外交官、1933年に日本駐在ドイツ大使として東京に着任した。」
*Dirksenはディルクセンと表記されているが、発音としては[ksn]であり、ディルクスンが適当かと思われる。ディルクスンは1933年12月に着任し、1938年2月(oder3月?)に病気のために辞任し、その後任に着いたのが、オイゲン・オット(Eugen Ott 1889-1977)である。
1934年2月13日、仙台―工芸指導所「・・・ひょっくりディルクセン夫人に会う。」
1934年2月16日、東京「日本橋の三越へ琅玕齋の作品展を見に行き・・・。ディルクセン夫人も購っている。
1935年4月5日、東京「・・・私たちの店ミラティス(Miratiss)では、商品の売行きがますます良くなってきた 、ただ井上氏がいかものをそっと持ち込むのは困りものだ・・・今日はディルクスン夫人に(夫人は前にもクッションを買っている)、たまたまこういういかものを指摘され恐縮した、しかし漆塗りの盆は気に入ったらしい・・・」
1935年7月15日、東京「・・・ディルクスン大使夫人やドイツ大使館の人たちは、私の講演を聴いて、その趣旨に賛同したそうだ・・・」
1935年10月30日、東京「今日は午後4時から華族会館で『日本建築の梗概 Grundlinie der japanischen Architektur』と題する講演を行った。ドイツ語だけで、通訳はつかなかったが、それでも聴衆は広間をほぼ一杯に埋めた。外人も多く、ドイツ大使夫人も来ていた(大使は病中である)。・・・」
タウトは1936年10月12日にドイツ大使館を訪れ、離日の挨拶をし、トルコへと旅立った。

参考文献
・『日本の近代建築』藤森照信(岩波新書)、『藤森照信の特選美術館三昧』(TOTO出版)
・タウトの日記は『日本 -タウトの日記-』(岩波書店)として3巻出版されている。本来ならば、ドイツ語の日記が出版されてからでないと言及すべき資料ではないが、やむを得ず使用する。言及すべきでない理由は、内容については、削除されている箇所があることである。それは息子のハインリヒ・タウトの論文に引用されている文章が、翻訳にはないことから判ることである。さらにドイツ語の原稿を見ることができた研究者からも削除されている箇所が指摘されている。さらに、翻訳については研究者のSpeidel が部分的に紹介しているドイツ語で調べるだけでも、明らかな誤訳かなり目につくのである。
残念なことであるが、こうした危険な文献を批判的に見ることもなく利用しているのが、自称タウト研究家という人たちの仕事なのが、偽らざる現状なのである。
Juni/Denkmalschutz
タイトルからは少し回り道をさせて戴くと・・・

入江長八は“漆喰の芸術家”とも“左官の神様”とも言うべきすぐれた芸術家である。立体ではもちろんないが、平面でもない、“鏝絵(こてえ)”には、不思議な立体感及びリアリティがあり、魅力に富んでいる。

ちなみに近くにある伊豆の長八美術館(1984)は石山修武の設計であり、石山はこの設計により「吉田五十八賞」を受賞している。外壁は“漆喰の王者”と言われる土佐漆喰で塗られ、なまこ壁で飾られている。展示室には壁の上部から自然光が差し込むように設計され、来場者は階段を昇り降りしながら鑑賞するようになっている。つまり鏝により膨らみをつけられた絵を通常の視点からのみならず、上方からも下方からも見ることができ、膨らみが作り出す陰影の魅力をあますところなく鑑賞できるように設計されているのである。

回り道しすぎた感もあるが、岩科学校に戻る。二階には入江長八の傑作と言われる千羽鶴が描かれた日本間があり、ここの床の間はのぼる太陽を表し紅に塗られ、違い棚の壁は緑色に塗られている。強い配色であり、すぐさま旧日向家熱海別邸の洋風客間と和風客間を想起させられた。日本人の色彩感覚も時代とともに変わるものということであろうか。
さらに驚かされたことがあった。
館内の多くの展示を簡単に見て通りすぎようとしていたとき、一枚の写真に[昭和10年ドイツ大使夫人「フォン・ディルクセン」来校時の写真である。]と書かれていたのだ。タウトの日記に登場する大使夫人が、伊豆の松崎を訪ねていたのだ。まず、日記からディルクセン夫人に関する記述を紹介しよう。
1934年2月4日、東京「・・・ドイツ大使館へ行く、万事きちんとしている。ディルクセン夫人と竹匠飯塚琅玕齋の工房を訪ねる・・・。 それでもディルクセン夫人は深皿様に編んだ作品を一個購った。・・・(注)ディルクセン(Hubert von Dirksen, 1882-)。ドイツの外交官、1933年に日本駐在ドイツ大使として東京に着任した。」
*Dirksenはディルクセンと表記されているが、発音としては[ksn]であり、ディルクスンが適当かと思われる。ディルクスンは1933年12月に着任し、1938年2月(oder3月?)に病気のために辞任し、その後任に着いたのが、オイゲン・オット(Eugen Ott 1889-1977)である。
1934年2月13日、仙台―工芸指導所「・・・ひょっくりディルクセン夫人に会う。」
1934年2月16日、東京「日本橋の三越へ琅玕齋の作品展を見に行き・・・。ディルクセン夫人も購っている。
1935年4月5日、東京「・・・私たちの店ミラティス(Miratiss)では、商品の売行きがますます良くなってきた 、ただ井上氏がいかものをそっと持ち込むのは困りものだ・・・今日はディルクスン夫人に(夫人は前にもクッションを買っている)、たまたまこういういかものを指摘され恐縮した、しかし漆塗りの盆は気に入ったらしい・・・」
1935年7月15日、東京「・・・ディルクスン大使夫人やドイツ大使館の人たちは、私の講演を聴いて、その趣旨に賛同したそうだ・・・」
1935年10月30日、東京「今日は午後4時から華族会館で『日本建築の梗概 Grundlinie der japanischen Architektur』と題する講演を行った。ドイツ語だけで、通訳はつかなかったが、それでも聴衆は広間をほぼ一杯に埋めた。外人も多く、ドイツ大使夫人も来ていた(大使は病中である)。・・・」
タウトは1936年10月12日にドイツ大使館を訪れ、離日の挨拶をし、トルコへと旅立った。

参考文献
・『日本の近代建築』藤森照信(岩波新書)、『藤森照信の特選美術館三昧』(TOTO出版)
・タウトの日記は『日本 -タウトの日記-』(岩波書店)として3巻出版されている。本来ならば、ドイツ語の日記が出版されてからでないと言及すべき資料ではないが、やむを得ず使用する。言及すべきでない理由は、内容については、削除されている箇所があることである。それは息子のハインリヒ・タウトの論文に引用されている文章が、翻訳にはないことから判ることである。さらにドイツ語の原稿を見ることができた研究者からも削除されている箇所が指摘されている。さらに、翻訳については研究者のSpeidel が部分的に紹介しているドイツ語で調べるだけでも、明らかな誤訳かなり目につくのである。
残念なことであるが、こうした危険な文献を批判的に見ることもなく利用しているのが、自称タウト研究家という人たちの仕事なのが、偽らざる現状なのである。
Juni/Denkmalschutz
2013.05.01 (Wed)
タウトと村野藤吾
タウトの日記に、昭和を代表する建築家の一人である村野藤吾(1891-1984)への言及も見い出すことができる。
1933年6月11日「京都。著述の材料を整理し始める、上野氏と談話。夜、下村氏が話しに来る(大阪の建築家村野氏、実業家及び画家も一緒)。」
1933年9月22日「東京-東京の建築。・・・遠藤女史、二人の建築家及び斎藤氏と、建築の写真を撮りながら東京中をドライヴする、女史の編集している雑誌へ写真入りで『新建築小旅行』という一文を寄稿するためである。こうして発見した建築がいくつかある、――亡くなった中年の建築家の手になる好ましい住宅(15-20年前の建築)、大阪の村野氏の設計した非常に端正なビルジング、佐藤氏の手になるもモダンな住宅。これは日本と現代的なものとの美しい結合だ。実に沢山の建築を見たし、私もまた写真を撮った。」
村野の建築としては日生劇場が有名だが、上記の建物は当時の森五商店であり、現在は近三ビルとして日本橋室町四丁目に現存、活用されている。

日生劇場外観

日生劇場内部

近三ビル外観

近三ビル・エントランス
村野の作品の一つに谷村美術館(新潟県糸魚川市)がある。

谷村美術館外観

谷村美術館内部

谷村美術館の回廊にて。左に澤田、右に村野。
この谷村美術館は“澤田政廣作品美術館”であり、美術館設立者である谷村繁雄が澤田の作品を展示するために美術館建設を思い立ち、それを村野藤吾の設計に委ねたということである。
この美術館の建築に際しては、当然のことながら彫刻家澤田と建築家村野という二人の芸術家の、どのようにして最善の展示ができるかということに関して、互いに妥協しない意見のぶつかり合いがあったことであろう。
そして澤田の作品を鑑賞するには、熱海市立澤田政廣記念美術館を訪れるにしくはない。澤田政廣(1894-1988)は熱海に生まれた芸術家であり、この美術館は澤田の膨大なコレクションを誇っている。

熱海市立澤田政廣記念美術館正面
この美術館の設計者に村野の名前はないが、外観を見ても展示室に入ってもすぐに谷村美術館に似ていることに気づく。ここでは、まるで来館者に「胎内巡り」を想起させる独特な空間となっており、彫刻作品を目の前の“外部”で鑑賞すると同時に作品の“内部”にもいるかのような不思議で魅力的な体験を可能としてくれている。
残念ながら、まだ谷村美術館を訪れたことはないのではあるが、両美術館は同じ理念により建築されていると想像できる。
熱海の美術館が竣工したのは1987年であり、村野はもはやこの世にいなかった。澤田もすでに93歳で、翌年に亡くなる。谷村美術館建築の際に二人で描いた“あるべき美術館”の理念を想起しつつ、澤田自らの強い思いによりできた美術館と言うべきであろう。

熱海市立澤田政廣記念美術館所蔵の「曼珠沙華」(1959年の作品)
[参考文献:『日本 タウトの日記1933年』(岩波書店)、『村野藤吾建築案内』(TOTO 出版)、『所蔵目録2001』(熱海市立澤田政廣記念館)]
ブルーノ・タウト、村野藤吾そして澤田政廣については、2014年2月に熱海・起雲閣にて開催の「タウトと昭和の熱海展」でさらに詳しく提示・解説する予定である。
Denkmalschutz
1933年6月11日「京都。著述の材料を整理し始める、上野氏と談話。夜、下村氏が話しに来る(大阪の建築家村野氏、実業家及び画家も一緒)。」
1933年9月22日「東京-東京の建築。・・・遠藤女史、二人の建築家及び斎藤氏と、建築の写真を撮りながら東京中をドライヴする、女史の編集している雑誌へ写真入りで『新建築小旅行』という一文を寄稿するためである。こうして発見した建築がいくつかある、――亡くなった中年の建築家の手になる好ましい住宅(15-20年前の建築)、大阪の村野氏の設計した非常に端正なビルジング、佐藤氏の手になるもモダンな住宅。これは日本と現代的なものとの美しい結合だ。実に沢山の建築を見たし、私もまた写真を撮った。」
村野の建築としては日生劇場が有名だが、上記の建物は当時の森五商店であり、現在は近三ビルとして日本橋室町四丁目に現存、活用されている。

日生劇場外観

日生劇場内部

近三ビル外観

近三ビル・エントランス
村野の作品の一つに谷村美術館(新潟県糸魚川市)がある。

谷村美術館外観

谷村美術館内部

谷村美術館の回廊にて。左に澤田、右に村野。
この谷村美術館は“澤田政廣作品美術館”であり、美術館設立者である谷村繁雄が澤田の作品を展示するために美術館建設を思い立ち、それを村野藤吾の設計に委ねたということである。
この美術館の建築に際しては、当然のことながら彫刻家澤田と建築家村野という二人の芸術家の、どのようにして最善の展示ができるかということに関して、互いに妥協しない意見のぶつかり合いがあったことであろう。
そして澤田の作品を鑑賞するには、熱海市立澤田政廣記念美術館を訪れるにしくはない。澤田政廣(1894-1988)は熱海に生まれた芸術家であり、この美術館は澤田の膨大なコレクションを誇っている。

熱海市立澤田政廣記念美術館正面
この美術館の設計者に村野の名前はないが、外観を見ても展示室に入ってもすぐに谷村美術館に似ていることに気づく。ここでは、まるで来館者に「胎内巡り」を想起させる独特な空間となっており、彫刻作品を目の前の“外部”で鑑賞すると同時に作品の“内部”にもいるかのような不思議で魅力的な体験を可能としてくれている。
残念ながら、まだ谷村美術館を訪れたことはないのではあるが、両美術館は同じ理念により建築されていると想像できる。
熱海の美術館が竣工したのは1987年であり、村野はもはやこの世にいなかった。澤田もすでに93歳で、翌年に亡くなる。谷村美術館建築の際に二人で描いた“あるべき美術館”の理念を想起しつつ、澤田自らの強い思いによりできた美術館と言うべきであろう。

熱海市立澤田政廣記念美術館所蔵の「曼珠沙華」(1959年の作品)
[参考文献:『日本 タウトの日記1933年』(岩波書店)、『村野藤吾建築案内』(TOTO 出版)、『所蔵目録2001』(熱海市立澤田政廣記念館)]
ブルーノ・タウト、村野藤吾そして澤田政廣については、2014年2月に熱海・起雲閣にて開催の「タウトと昭和の熱海展」でさらに詳しく提示・解説する予定である。
Denkmalschutz
2013.03.28 (Thu)
絵葉書を作って頂きました
熱海在住で活躍中の 酒井理恵子さんが 熱海百景より 重要文化財「旧日向家熱海別邸・モーツァルトの部屋」設計:ブルーノ・タウト の絵葉書をつくってくれました。 早速紹介させてもらいます。
ほのぼのした独特の味ある作品に仕上がっていてとても嬉しく感謝しています。 早速市に申請し許可をうけ、旧日向別邸の販売コーナーにても取り扱いたく思います。(外でも150円/枚にて販売します)
ほのぼのした独特の味ある作品に仕上がっていてとても嬉しく感謝しています。 早速市に申請し許可をうけ、旧日向別邸の販売コーナーにても取り扱いたく思います。(外でも150円/枚にて販売します)
2013.03.28 (Thu)
「縁 清き流れに」を贈呈いただきました
以前旧日向別邸にもお越しいただいた富山在住の大村様より本の贈っていただきました。大村様は昨年6月に講演をしていただいたNTTファシリテイーズの吉岡顧問の紹介でお越しになられまたした。吉田鉄郎は富山県出身の建築家。富山での活躍の多くが紹介されています。ぜひ皆様もお手にとってお読み頂ければと思います。
2013.03.20 (Wed)
熱海市観光まちづくり事業費補助事業報告会
3月19日(火)午後6時より起雲閣音楽サロンにて24年度報告と25年度公募要綱説明会がありました。当会も補助対象会ですので会長と私二人で参加し報告をしました。25年度はかなりの変更があり応募締切りが4月12日とかで総会の準備が重なり忙しくなりそうです。
2013.02.22 (Fri)
ブルーノ・タウトと佐々木嘉平
タウトが日本に残した唯一の遺産である「旧日向家熱海別邸」は国指定の重要文化財であり、DOCOMOMO100選にも名を連ねる名建築であることに疑問の余地はない。
しかしタウトとともに日向邸建設に携わった日本人にも光が注がれなければならない。そこには施主の日向氏、昭和を代表する建築家の一人である吉田鉄郎氏、そして名人とも言うべき宮大工の佐々木嘉平氏がいる。佐々木は1971年に黄綬褒章を受賞されている。
佐々木 (1889年~ 1983年)の技は、正福寺地蔵堂(東村山市、国宝)の復元、円融寺本堂(目黒区、重要文化財)の復元等で見ることができる。そこを訪れることを強くお薦めしたい。なんとも言えない勾配にうっとりとし、いつまでも去りがたい気持ちになる。


日向邸の奥に位置する和風客間にじっくりと目を注ぐと、見事なまでに均整のとれた細部の数々にまさに圧倒されてしまう。

ドイツ人タウトのイデーを名工佐々木の技が形にしていったと言うべきであろう。
昨年、タウトと佐々木の関わりを少しでも知りたいと思い、嘉平氏のご子息である功一氏、お孫さんの健氏をお訪ねした。『日本 タウトの日記』(岩波書店)には書かれていないことを知ることができ、たいへん有意義なお話を伺うことができた。お二人に感謝の気持ち一杯で辞去したことを想い出す。
その功一氏も突然他界されてしまった。心よりご冥福をお祈りする。
Denkmalschutz
しかしタウトとともに日向邸建設に携わった日本人にも光が注がれなければならない。そこには施主の日向氏、昭和を代表する建築家の一人である吉田鉄郎氏、そして名人とも言うべき宮大工の佐々木嘉平氏がいる。佐々木は1971年に黄綬褒章を受賞されている。
佐々木 (1889年~ 1983年)の技は、正福寺地蔵堂(東村山市、国宝)の復元、円融寺本堂(目黒区、重要文化財)の復元等で見ることができる。そこを訪れることを強くお薦めしたい。なんとも言えない勾配にうっとりとし、いつまでも去りがたい気持ちになる。


日向邸の奥に位置する和風客間にじっくりと目を注ぐと、見事なまでに均整のとれた細部の数々にまさに圧倒されてしまう。

ドイツ人タウトのイデーを名工佐々木の技が形にしていったと言うべきであろう。
昨年、タウトと佐々木の関わりを少しでも知りたいと思い、嘉平氏のご子息である功一氏、お孫さんの健氏をお訪ねした。『日本 タウトの日記』(岩波書店)には書かれていないことを知ることができ、たいへん有意義なお話を伺うことができた。お二人に感謝の気持ち一杯で辞去したことを想い出す。
その功一氏も突然他界されてしまった。心よりご冥福をお祈りする。
Denkmalschutz
2013.02.16 (Sat)
ブルーノ・タウトとバウハウス 公開講座のお知らせ
NPO法人日向家熱海別邸保存会の会員でもある田中辰明氏によるセミナーが下記の通り開催されます。平成25年4月より5回シリーズで自由学園明日館にて行われます。ご興味のある方!ご参加さください。
お問い合わせ先
自由学園明日館 公開講座事務局
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-31-3
TEL:03-3971-7326(日・月・祝日休み) FAX:03-3971-7329
http://www.jiyu.jp
お問い合わせ先
自由学園明日館 公開講座事務局
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-31-3
TEL:03-3971-7326(日・月・祝日休み) FAX:03-3971-7329
http://www.jiyu.jp
2013.01.01 (Tue)
フェイスブック(Facebook)を開設しました。
おそばせながら 我がNPO法人日向家熱海別邸保存会もNSNに対応すべく facebook を開設しました。いいねをクリックして多くの方々にお知らせ頂ければ幸いなのですが ・・・。
平成25年がスタートしました。本年も宜しくお願い申し上げます。
<facebookへ>
平成25年がスタートしました。本年も宜しくお願い申し上げます。
<facebookへ>
2012.12.03 (Mon)
ブルーノ・タウト謎解きコンサート2012 熱海新聞
11月29日無事講演会、コンサートを盛況のうちに終了することができました。ここに御礼申し上げます。
ここに 熱海新聞記事を掲載します。
約3年半滞日したタウトが日本に残した唯一の作品が「旧日向家熱海別邸」です。
この別邸は主として三部屋で構成されており、これをタウト自身が、ベートーヴェン、モーツァルトそしてバッハに例えています。そこで「謎解きコンサート」と銘打って、講演とコンサートとを組み合わせて、別邸の魅力を解き明かそうというイヴェントを開催して参りました。
第一回は、この三人の偉大な作曲家と別邸の各部屋との関連を取り上げました。第二回は、タウトはなぜ同時代の作曲家であるマーラーやりヒャルト・シュトラウスたちではなく古典的な三人に自らの建築作品を例えたのかというテーマで開催致しました。
そして今年の第三回では、特に、ドイツ人であるタウトが内装設計した和室の不思議としか言いようのない魅力に迫ろうと試みました。この和室は畳、障子そして床の間と“日本的なもの”から成り立っているのですが、日本的な各要素が、ドイツ人の建築理念で配置されることにより、なんとも不思議で比類のない空間になっているのです。この不思議さを解く鍵として、タウトと同時代の日本人作曲家の曲を取り上げたのです。
こうした曲はヨーロッパの音楽法で書かれ、ヨーロッパの楽器であるヴァイオリンとピアノで演奏されるのですが、それを構築しているのは日本人の感性であり、例えば「竹取物語」(貴誌康一作曲)という日本の古典作品を描き出そうとしているものなのです。そして西洋音楽に慣れた私たちの耳にも、やはり不思議な魅力として届くのです。
ちょうどフィルムのネガとポジのような関係にあるとも言えましょう。こうした不思議な和室と不思議な音楽との両方を体験して戴くことにより、まさにここ熱海にしか存在しないタウトの建築芸術の魅力の一端を解き明かすことができたのではないでしょうか。
もう一つだけつけ加えますと、タウトという建築家の作品、理念そして人生を考える場合に、“ジャポニスム”という視座が不可欠であるということもご紹介できたのではないでしょうか。
私たち「NPO法人日向家熱海別邸保存会」は、これからも意欲的に別邸の紹介と保存に取り組んでまいります。なにとぞ温かいご支援をお願いいたします。
2012.11.21 (Wed)
ブルーノ・タウト 謎解きコンサート2012 開催迫る!
タウトが日向邸竣工記念の為に熱海を訪れた際に次の様に述べています。 「 ・・・いま私の仕事が、細部にいたるまで成功しているのを見て、非常に満足した。・・・全体として明快厳密で、ピンポン室(或いは舞踏室)、洋風のモダンな居間、日本座敷および日本風のヴェランダを、一列に並べた配置は、すぐれた階調を示している。いささか古めかしい言い方をすれば、ベートーヴェン、モーツァルト、バッハだ。私はこの建築を、釣合についてはもとより、細部、材料及び色彩にいたるまで、成功したと信じている。(・・・)」
今回のコンサートは、バッハ、ベートーヴェンのほかに、“和”(日本)の音楽を加え演奏していただきます。
タウトはドイツ人。西洋の建築家が作った日向邸の空間は、誠に「摩訶不思議」なる和洋折衷空間として作り上げられており、他では見られない 独特の建築空間が出来上がっています。 この空間イメージを、ファイン・デュオのお二方が ヴァイオリンとピアノで奏でます。「摩訶不思議」なる世界へ誘ってくれることでしょう。 どうぞお楽しみ下さい。
演奏 ファイン・デュオ(沼田園子、蓼沼明美)
開催日時 平成24年11月29日(木) 午後2時 (開場午後1時30分)
開催場所 起雲閣・音楽サロン
料 金 当日3000円 前売り2000円 会員1500円
お申込み NPO法人日向家熱海別邸保存会事務局 050-7577-4862
hyugatei@kif.biglobe.ne.jp
案内チラシ PDF案内書
今回のコンサートは、バッハ、ベートーヴェンのほかに、“和”(日本)の音楽を加え演奏していただきます。
タウトはドイツ人。西洋の建築家が作った日向邸の空間は、誠に「摩訶不思議」なる和洋折衷空間として作り上げられており、他では見られない 独特の建築空間が出来上がっています。 この空間イメージを、ファイン・デュオのお二方が ヴァイオリンとピアノで奏でます。「摩訶不思議」なる世界へ誘ってくれることでしょう。 どうぞお楽しみ下さい。
演奏 ファイン・デュオ(沼田園子、蓼沼明美)
開催日時 平成24年11月29日(木) 午後2時 (開場午後1時30分)
開催場所 起雲閣・音楽サロン
料 金 当日3000円 前売り2000円 会員1500円
お申込み NPO法人日向家熱海別邸保存会事務局 050-7577-4862
hyugatei@kif.biglobe.ne.jp
案内チラシ PDF案内書
2012.10.13 (Sat)
旧日向別邸見学ガイドVTRが新しくなりました。
現在、旧日向別邸の見学は、年間を通して土・日・祭日に休みなく行われ、9時30分より1時間単位で午前中3回、午後1時より3回おこなわれています。今迄は、一時間の半分をVTRを見て頂き、後の30分を地下のタウトの部屋をガイドがご案内してきました。しかしこれだと 施設のガイド時間が短く、来て頂いた皆様に説明不足となる傾向が強く、VTRの時間を短くしガイド時間を長くする以前より検討がなされてきました。
先週の土曜日(10月5日)よりNPO法人日向家熱海別邸保存会会員作成によるガイドVTRが熱海市の監修の下に許可され以後放映されることとなりました。旧日向別邸場所、タウトの紹介、旧日向別邸の紹介、現在に至る歴史などの全容が15分にまとめられています。 以後は、このVTRの見て頂いたのちガイドによる見学となります。
(keep+1) <詳細PDFを見る>
2012.09.29 (Sat)
日向邸に秘められた“音楽”と“ジャポニスム”
★11月29日には、起雲閣にて、「ブルーノ・タウト 謎解きコンサート」が開催されます★
前回までは、重要文化財であり、尽きせぬ魅力に溢れる旧日向家熱海別邸に秘められた「音楽」をファイン・デュオによる妙なる調べとミニ講演とで、皆さまにお届けしてまいりました。
今年度は、さらに「和」あるいは「ジャポニスム」をファイン・デュオによる日本の曲の演奏とミニ講演とで、皆さまにお届けします。
タウトあるいは旧日向家熱海別邸について考える場合、大事なことでありながら、軽視されてきましたのは、その時代のことです。ことさらタウトだけが日本を愛していたという見方は、不十分でしょう。
タウトの青年時代、つまり19世紀末以来、ヨーロッパでは、葛飾北斎や歌川広重の絵画が注目され、高く評価されていたのです。
タウトより早い時代に訪日したホーエンベルガーは、桜の咲く頃の東京を見て、「これこそは、眼の祝祭だ」と書いています。これは、まるでタウトが桂離宮を訪れたときの表現であると錯覚しそうなほど似ています。
さらにタウトの1934年2月23日の日記には、グローセ著の『東洋の水墨画』を入手したとあります。この本で紹介されている雪舟に代表される禅画を絶賛する姿勢は、タウトが論じた日本絵画論の方向を決定づけていると言っても過言ではないでしょう。
また西洋建築家たちのあいだでも、日本建築への熱狂とまで言われる評価があったのです。桂離宮はじめ日本建築を評価したのはタウトにとどまるものではありません。
一つだけ例を挙げておきましょう。タウトは所属することはありませんでしたが、当時のドイツではバウハウスという、美術と建築の総合的な教育と制作をした学校がありました。
その教育の基礎過程の教員にヨハネス・イッテン(1888-1967)という教育者であり画家がいました。
イッテンの、蘭の墨絵と椿の絵を紹介しておきましょう。椿の絵には、イッテンを一天と表記していることも興味深いところです。
三枚目に紹介するのは、タウトが描いた、仙台の紅葉の絵です。
こうした絵を並べてみるだけで、タウトや旧日向家熱海別邸を考える場合、当時のジャポニスムの大きな流れを捉えておくことが大事なことであるのが判るのではないでしょうか。
さらに多くの興味深い例が、ミニ講演で紹介されることでしょう。
もちろんファイン・デュオによる日本の曲の演奏も皆さまを魅了することでしょう。
ぜひ、「謎解きコンサート」にお出掛けください。



前回までは、重要文化財であり、尽きせぬ魅力に溢れる旧日向家熱海別邸に秘められた「音楽」をファイン・デュオによる妙なる調べとミニ講演とで、皆さまにお届けしてまいりました。
今年度は、さらに「和」あるいは「ジャポニスム」をファイン・デュオによる日本の曲の演奏とミニ講演とで、皆さまにお届けします。
タウトあるいは旧日向家熱海別邸について考える場合、大事なことでありながら、軽視されてきましたのは、その時代のことです。ことさらタウトだけが日本を愛していたという見方は、不十分でしょう。
タウトの青年時代、つまり19世紀末以来、ヨーロッパでは、葛飾北斎や歌川広重の絵画が注目され、高く評価されていたのです。
タウトより早い時代に訪日したホーエンベルガーは、桜の咲く頃の東京を見て、「これこそは、眼の祝祭だ」と書いています。これは、まるでタウトが桂離宮を訪れたときの表現であると錯覚しそうなほど似ています。
さらにタウトの1934年2月23日の日記には、グローセ著の『東洋の水墨画』を入手したとあります。この本で紹介されている雪舟に代表される禅画を絶賛する姿勢は、タウトが論じた日本絵画論の方向を決定づけていると言っても過言ではないでしょう。
また西洋建築家たちのあいだでも、日本建築への熱狂とまで言われる評価があったのです。桂離宮はじめ日本建築を評価したのはタウトにとどまるものではありません。
一つだけ例を挙げておきましょう。タウトは所属することはありませんでしたが、当時のドイツではバウハウスという、美術と建築の総合的な教育と制作をした学校がありました。
その教育の基礎過程の教員にヨハネス・イッテン(1888-1967)という教育者であり画家がいました。
イッテンの、蘭の墨絵と椿の絵を紹介しておきましょう。椿の絵には、イッテンを一天と表記していることも興味深いところです。
三枚目に紹介するのは、タウトが描いた、仙台の紅葉の絵です。
こうした絵を並べてみるだけで、タウトや旧日向家熱海別邸を考える場合、当時のジャポニスムの大きな流れを捉えておくことが大事なことであるのが判るのではないでしょうか。
さらに多くの興味深い例が、ミニ講演で紹介されることでしょう。
もちろんファイン・デュオによる日本の曲の演奏も皆さまを魅了することでしょう。
ぜひ、「謎解きコンサート」にお出掛けください。



2012.08.30 (Thu)
第三回ブルーノ・タウト謎解きコンサートの開催のご案内
第一回、第二回の謎解きコンサートは、タウトが日向邸竣工記念の為に熱海を訪れた際に述べた「 ・・・いま私の仕事が、細部にいたるまで成功しているのを見て、非常に満足した。・・・全体として明快厳密で、ピンポン室(或いは舞踏室)、洋風のモダンな居間、日本座敷および日本風のヴェランダを、一列に並べた配置は、すぐれた階調を示している。いささか古めかしい言い方をすれば、ベートーヴェン、モーツァルト、バッハだ。私はこの建築を、釣合についてはもとより、細部、材料及び色彩にいたるまで、成功したと信じている。(・・・)」にちなみ、ドイツを代表する三大作曲家の曲を演奏して頂いてきました。 今年は嗜好を更に膨らませ、“和”(日本)の音楽を加え演奏して頂くこととなりました。
タウトはドイツ人。西洋の建築家が作った日向邸の空間は、誠に「摩訶不思議」なる和洋折衷空間として作り上げられており、これにタウト独自の表現が加えられて他では見られない “オンリーワン” の建築となっています。 この空間イメージを、ファイン・デュオのお二方が ヴァイオリンとピアノで「日本」を奏でます。この独特なサウンドが、私たちを 「摩訶不思議」なる世界へ誘ってくれます。“和”と“洋”の自立した個性の共鳴は、”タウト”と“私たち”を時代を超えて繋ぎ、今に蘇らせてくれる事でしょう。
演 奏 ファイン・デュオ(沼田園子、蓼沼明美)
開催日時 平成24年11月29日(木) 午後2時 (開場午後1時30分)
開催場所 起雲閣・音楽サロン
料 金 当日3000円 前売り2000円 会員1500円
お申込み NPO法人日向家熱海別邸保存会事務局 050-7577-4862
hyugatei@kif.biglobe.ne.jp
案内チラシ PDF案内書
2012.08.28 (Tue)
日向邸の床の間
タウトは、床の間は芸術が集合する場所であると述べて、日本家屋のなかでもとりわけ床の間を高く評価しています。タウトが日本滞在中に唯一設計した日向邸の和風居間には、タウトが作った床の間があります。

写真でわかるように、落し掛けが鴨居と同じ高さになっている点に大きな特徴があります。タウトの右腕となり、活躍した宮大工の佐々木嘉平は、タウトが設計した床の間では、どんな形の掛軸にも向くという訳にはいかないと語ったそうです。比較の対象に、修学院離宮の床の間の一つを見てみましょう。

落し掛けの位置が違うことが判ります。タウトがわざわざ普通ではない位置にした理由は様々に考えられますが、その一つは、タウトが尊敬すらしていた小堀遠州の手になる大徳寺孤篷庵へのオマージュの意味を込めたからだという推測が成り立ちます。下が孤篷庵の床の間です。

日本建築はじつに多様性に富んでおり、落し掛けの位置が“ふつう”とは逆になっているものもあります。可能性として三通りあるのですが、現実にも三種の位置があるのです。

上は伏見稲荷大社のお茶屋の写真です。
床の間一つを取り上げても、日本家屋の多彩な魅力が判ります。
(Denkmalschutz)

写真でわかるように、落し掛けが鴨居と同じ高さになっている点に大きな特徴があります。タウトの右腕となり、活躍した宮大工の佐々木嘉平は、タウトが設計した床の間では、どんな形の掛軸にも向くという訳にはいかないと語ったそうです。比較の対象に、修学院離宮の床の間の一つを見てみましょう。

落し掛けの位置が違うことが判ります。タウトがわざわざ普通ではない位置にした理由は様々に考えられますが、その一つは、タウトが尊敬すらしていた小堀遠州の手になる大徳寺孤篷庵へのオマージュの意味を込めたからだという推測が成り立ちます。下が孤篷庵の床の間です。

日本建築はじつに多様性に富んでおり、落し掛けの位置が“ふつう”とは逆になっているものもあります。可能性として三通りあるのですが、現実にも三種の位置があるのです。

上は伏見稲荷大社のお茶屋の写真です。
床の間一つを取り上げても、日本家屋の多彩な魅力が判ります。
(Denkmalschutz)
2012.08.13 (Mon)
ブルーノ・タウト、生涯と作品 講演会のお知らせ
2012.08.11 (Sat)
田中辰明名誉教授「ブルーノ・タウト」を出版されました!

40年もの長い間、ブルーノ・タウトの研究を続けてこられた田中辰明先生がこのたび中公新書より「ブルーノ・タウト」を出版されました。
第1章のタウトの修行時代から、円熟期を迎えた1910~20年代とその歴史的背景、日本美の再発見、二人の伴侶(妻と秘書)、そして第6章ではタウト終焉の地トルコ(イスタンブール)での生活に至るまで、田中先生ご自身の目と足で集められた写真や資料が惜しげもなく掲載され、読み応えたっぷりです。
東京大学名誉教授の藤森照信先生の書評が毎日新聞(7月29日)に掲載されました。
“これまでいくつものタウト関係の本は出されているが、普通の人が最初に読むには一番いいだろう。タウトのジグザグ人生を時代や社会との関係の中で辿り、10年単位で変わるような20世紀建築についての基礎知識が乏しくても入っていけるように書かれている。”
また、婦人公論(8月号)の書評にも“建築の専門家が、建築家としてのタウトの生涯と作品をたどり、その全貌をあきらかにした意欲作である。とりわけ建築作品を知ることによってはじめてタウトがわかる。58歳で他界するまでの激動の人生。・・・女たちに愛された男としての一面を拾い読みするのもまた一興かもしれない。”と書かれています。
皆さんも是非、ご一読ください。タウトのことをご存知の方もきっと新しい発見があるかと思います。
赤旗--書評を見る 婦人公論--書評を見る
2012.07.30 (Mon)
講演会の新聞記事紹介


-- 講演会を取材頂いた記事です --
7月20日にNPO法人日向家熱海別邸保存会の認証を頂き新たな内容で開催されました。
発足記念講演会での吉岡講師による「ブルーノ・タウトを支えた日本人」に引き続き、今回の設立記念講演会を開くにあたっては、準備期間が短く会員の皆さまも大変でしたが、盛況の様子をみるにつけ安堵したというのが実感でした。
報道各社の皆さまにはこうして取材報道頂きありがたく思います。
熱海市民方々の多くがまだ 旧日向家熱海別邸をご存じない方々です。こうした機会を通して見学頂ければと願っています。 (keep+1)
--記事内容をまとめて読むPDF--
2012.07.27 (Fri)
ブルーノ・タウト日本滞在の謎 講演会開催される
翌日から31日まで開催される展示会の準備もほぼ完了した会場で、松本講師をお迎えし講演を頂きました。太田会員の司会の下、NPO理事長中井の挨拶、斉藤栄市長の祝辞を頂きくなかで「情熱的」に開催されました。
2012.07.27 (Fri)
第二回深紅の情熱展 伊豆毎日新聞記事紹介
2012.07.10 (Tue)
7月26日 ブルーノ・タウト講演会! 期日迫る!
4月に申し込みましたNPO法人申請も2ヶ月の公示期間が終わり今月の20日過ぎには通知が届く段階となりました。昨年に引き続き第二回の展示会「深紅の情熱展」開催に先駆けて 松本晃講師による記念講演会を開催します。
講師の父・寅一氏はタウトが上京した際、自らが設立した「国際フレンド会館」でもてなしました。その時のタウト及び同伴したエリカに関する様々なお話。他では聞くことのできない 実話を語って頂きます。ぜひ起こしください。
お申込み先 保存会事務局 電話、ファックス050-7577-4862
E-mail hyugatei@kif.biglobe.ne.jp
講師の父・寅一氏はタウトが上京した際、自らが設立した「国際フレンド会館」でもてなしました。その時のタウト及び同伴したエリカに関する様々なお話。他では聞くことのできない 実話を語って頂きます。ぜひ起こしください。
お申込み先 保存会事務局 電話、ファックス050-7577-4862
E-mail hyugatei@kif.biglobe.ne.jp
2012.06.08 (Fri)
第二回 講演・展示会 深紅の情熱展を開催します
2012.06.07 (Thu)
講演会「ブルーノ・タウトを支えた日本人」のDVDが完成しました
たっぷり2時間の講演をまるごと収録したDVDができました。 今まで行われた講演会の多くがDVDとなって保存会に納められています。 貴重な講演を一度だけ、数十人だけでは「もったいない」との精神で残しているのですが、その使い方にまでいたっていません。今後うまい活用の仕方を保存会として検討していきたいと思っています。 (keep+1)